なぜ日本人だけが「駅伝」に熱狂するのか——たすきに込められた100年の物語

正月のテレビをつければ、大学生ランナーたちが一本の「たすき」をつなぎながら箱根の山を駆け上る。日本人にとって当たり前のこの光景は、実は世界的に見るとかなり特異なスポーツ文化である。マラソンは古代ギリシャ以来「個人の英雄譚」として発展してきたのに対し、駅伝は「集団の物語」として設計された、日本独自の競技だからだ。

駅伝は「国家的イベント」として生まれた

駅伝競走の起源は1917年(大正6年)4月、東京奠都50周年を記念して読売新聞社が企画した「東海道駅伝徒歩競走」にさかのぼる。京都・三条大橋から東京・上野不忍池までの約508キロを、関西組と関東組に分かれて23区間でつないだこの一大レースは、単なる運動競技ではなく、遷都50年という国家の節目を演出するメディアイベントだった。この関東組のアンカーを務めたのが、のちに「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三である。

金栗は1912年ストックホルム五輪のマラソンで、あまりの酷暑に途中棄権し行方不明扱いとなった苦い経験を持つ(この「消えた日本人ランナー」は、実に54年8か月後の1967年、五輪記念式典に招かれてようやく正式にゴールするという伝説を残した)。個人としての挫折を経た金栗は「一人の天才を待つより、たくさんの選手を同時に育てる仕組みが必要だ」と考え、1920年、東京高等師範学校ら4校による第1回箱根駅伝を創設する。つまり駅伝は最初から、西洋的な「個人の限界への挑戦」ではなく「集団による選手育成システム」として構想されていたのである。

「たすき」が象徴する共同体の物語

近代マラソンの起源とされる「マラトンの故事」——ペルシャ戦争の勝利を伝えるため走り、伝令が力尽きて絶命したという逸話は、実は19世紀の英国詩人ロバート・ブラウニングの創作に由来するとされ、1896年の第1回アテネ五輪でこれにちなんだ種目として採用された経緯がある。西洋のマラソン物語がどこまでも「孤独な一人の走者」を主人公にするのに対し、駅伝はたすきという物理的な媒体を通じて、走者同士の力量差や失敗までもが次走者へと引き継がれる。これは江戸時代の飛脚制度にも通じる「継走」の発想であり、個人の栄光よりも「つなぐこと」自体に価値を置く独特の美学を育てた。

テレビが駅伝を「国民行事」に変えた

箱根駅伝はラジオ中継が1953年、テレビ中継が1987年から日本テレビによって本格化し、関東ローカルの大学スポーツが全国区の正月番組へと変貌した。生放送で刻々と映し出される「たすきの重み」は、視聴者に競技の勝敗以上の感情移入を促し、スポーツ観戦の枠を超えて「たすきをつなぐ」という言葉自体が企業の事業承継や世代交代を語る際の慣用句として日本社会に定着するに至った。

一方でこの成功には代償もある。日本のトップ選手育成が箱根駅伝の「主要区間で活躍すること」を頂点とするキャリア観に偏り、世界のマラソン界で戦うための個人記録志向が育ちにくいという構造的な批判も根強い。かつて円谷幸吉(1964年東京五輪銅メダル)や瀬古利彦、高橋尚子(2000年シドニー五輪金メダル)を輩出した日本男子マラソンが世界のトップから遠ざかった一因を、駅伝中心の競技カレンダーに求める議論は、駅伝という文化そのものの光と影を映し出している。

参考にした漫画・アニメ

  • 風が強く吹いている:三浦しをんの小説を原作に2007年に漫画化、2018年にはProduction I.Gによりテレビアニメ化。寄せ集めの学生10人が、荒れ果てた寮の先輩ハイジに率いられ、わずか1年で箱根駅伝出場を目指す物語。見ず知らずの走者同士が一本のたすきを通じて“家族”になっていく過程は、1917年の駅伝創設時から続く「集団で走る」ことの意味を、現代の青春群像として描き直している。
  • 奈緒子:坂田信弘原作・中原裕作画で「ビッグコミックスピリッツ」に1994〜2003年連載された長編陸上漫画。日本海の離島・波切島で育った天才ランナー壱岐雄介の成長と、島の小さな駅伝大会を軸に物語が進む。箱根のような全国的舞台ではなく、地方の草の根の駅伝文化を丁寧に描いた点で、テレビ中継以前の駅伝が本来持っていた「地域の祭り」としての側面を伝えてくれる作品である。
  • 弱虫ペダル:渡辺航による2008年連載開始の自転車ロードレース漫画(アニメ化もされている人気シリーズ)。オタク気質の高校生・小野田坂道が、ロードバイクの登坂力を武器にインターハイの団体タイムトライアルに挑む。区間ごとに走者(選手)が入れ替わり、個人の記録差がチーム全体のタイムに直結する構造は駅伝と酷似しており、「たすきをつなぐ」思想が競技の枠を超えて日本のスポーツ物語に浸透していることを示す好例といえる。

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42.195kmの真実 ― マラソンの距離を決めたのは科学ではなく「王室の都合」だった

マラソンの距離といえば「42.195km」。多くの人はこれを、人体の限界を科学的に検証して定められた数字だと思っているのではないだろうか。しかし史実をたどると、この距離は生理学的な計算からではなく、ある王室の観覧の都合から偶然生まれたものだった。

伝説の起源と初期オリンピックの混乱

マラソン競技の起源とされる紀元前490年の逸話――ペルシア軍に勝利した報せを伝えるため、兵士がマラトンからアテネまで走り抜き、伝令を果たした直後に息絶えたという話――は、実は事件から数百年後にプルタルコスらが書き残した後世の脚色である可能性が高い。当時の歴史家ヘロドトスの記録には、この「死の伝令」の逸話は登場しない。つまり近代マラソンは、史実そのものではなく「美しい物語」を土台に設計された競技だったのである。

1896年の第1回アテネ五輪では、マラトンの戦場跡からアテネの競技場までの実際の道のりを測った約40kmが採用された。ところがその後の大会では開催地ごとに距離がまちまちで、1900年パリ大会は約40.26km、1904年セントルイス大会は約40km弱と、統一された基準はなかった。

1908年ロンドン五輪 ― 王室の観覧席が距離を決めた

転機となったのが1908年のロンドン五輪である。コースはウィンザー城の敷地内からスタートし、ロンドン西部のホワイトシティ競技場まで走るよう設計された。ここで主催者は、競技場に入ってからのゴール地点を「国王エドワード7世と王妃アレクサンドラが座る貴賓席の真正面」に設定した。観客サービスとしては当然の配慮だったが、結果としてスタート地点からその地点までの距離が26マイル385ヤード、メートル換算で42.195kmになった。これはあくまで偶然の産物であり、この時点では「今大会限りの距離」という扱いだった。

この大会では、イタリアの職人ランナー、ドランド・ピエトリの劇的な力尽き方も語り草になっている。競技場に一番乗りしたピエトリは、疲労で何度も倒れながらそのたびに立ち上がり、見かねた係員に体を支えられながらゴールテープを切った。この「補助を受けた」行為が問題視され、抗議の末に彼は失格、繰り上がったアメリカのジョニー・ヘイズが金メダルとなった。しかしピエトリの奮闘は世界中の同情と賞賛を集め、後日アレクサンドラ王妃から特別に金メッキのカップが贈られている。勝者の記録よりも、力尽きた敗者の姿が語り継がれるという、マラソンという競技の本質を象徴する出来事だった。

「たまたま」が「伝統」になるまで

その後もオリンピックの距離は大会ごとに微妙に揺れ動いたが、1921年に国際陸上競技連盟(当時の名称)が正式に42.195kmを標準距離として採択し、1924年パリ五輪から現在まで一貫して用いられている。つまり世界中のランナーが毎週末に挑む「あの距離」は、生理学的な最適値としてではなく、120年近く前のロンドンの貴賓席の位置という偶発的な事情に由来しているのだ。

ここに歴史を学ぶ面白さがある。私たちが「伝統」や「基準」として疑いなく受け入れているものの多くは、後から振り返れば単なる偶然や政治的配慮の産物であることが少なくない。マラソンの距離はその典型例であり、スポーツの制度史を調べることは、権威や慣習がどのように「当たり前」になっていくのかを考える良い教材になる。

参考にした漫画・アニメ

  • 風が強く吹いている:箱根駅伝を目指す寛政大学陸上部を描いた作品。理論派の主人公が、才能よりも積み重ねた練習と仲間との関係性で長距離走に向き合っていく過程を通じて、記事で扱った『美しい物語として語られる長距離走』というテーマと重なる部分が多い。
  • アタックNo.1:1960年代末の女子バレーボールを舞台にした昭和スポ根漫画の代表作。勝利のためにひたすら心身を鍛え上げる『根性論』の描写は、ペルシア戦争の伝令が力尽きるまで走り抜いたという逸話が長く『美談』として受容されてきた文化的背景を考える上で参照点になる。
  • 弱虫ペダル:自転車ロードレースを題材にした部活漫画で、精神論だけでなく空気抵抗やギア比といった科学的なトレーニング理論が随所に描かれる。根性一辺倒だった昭和のスポーツ観と、データや理論を重視する現代のスポーツ観との対比を考える材料になる。

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